はなびら・ふたつ
「あぁ雨だよ
哀しみ涙のように 降ってきた
小さな倖せだけで いいのよ」
あなたの背中に顔伏せて
いやいやの首をふる
「いけないのは 私だもの・・・」
レースのカーテン なみだ雨
おもいで はなびら ひとつ散りました
「あぁ雨だよ
悦び涙のように 降ってきた
二人で倖せさがし しようね」
あなたの横顔いとしくて
いやいやの首をふる
「愛しすぎた 私だもの ・・・」
レースのカーテン なみだ雨
なないろ はなびら ふたつ咲きました
そして今・・・手と手とりあって
傘もない あなたと私
濡れてます 濡れてます
2014年
団塊末子のつぶやき
はなびら・ふたつ
今も、変わらない・・・幼い頃の私の記憶、今日までも、ずっと、ずっと、変わらない・・・。
春先の窓辺、少し開けられたガラス窓、閉められたままの、レースのカーテン。その裾が「おいでおいで」と、豊かなフリルをなびかせて、幼い私を抱き込むように、誘っている。
私のお母さん、いつだって、窓をいっぱいに、開いた事がなかったから、幼心に、ガラス窓と、レースのカーテンは、いっぱいに、開いちゃいけないものだと、思っていました。
夏の暑い昼下がり、急に降りだした雨音が、怖くて、窓辺に立つ母の片手に縋りつき、震えていた時も、レースのカーテンは閉められていた。雷の音と光に、真っ暗になっても、母は動かないで、レースのカーテン越しに、窓の外を見ていた。なぜか、そんな母が、雷よりも、もっと怖かった。
電気が灯いた時、母の目に、涙が残っていた。不思議な感じがして、すーっと怖さが消え、母の手から、温もりが伝わってきた。
真夏の蝉しぐれ、幼い私には、うるさいだけだったけど、涼しくなる頃には、残り少ない命を泣くような、虫たちの声は大好きだった。
やがて、秋の黄昏時、窓辺の母は、いつもより、ゆっくりと、私のお話を聞いてくれた。うれしくて私、勢いよくおしゃべりしたよね・・・。
いつだって母と二人。その側には、優しいおばぁちゃんがいて、女三人の生活は、なんの違和感もなかったのに・・・。
いつの頃か、私は、結婚できない男の娘だったと、知らされた。私生児と呼ばれて、道徳上、教育上、良くない生き方だと、噂された。
いつも凛と、前を向いていた母だったし、どんな時も、私をみつめてくれていたから、父を知らないという事は、私にとっては、それほど大した事ではなかった。
そんな母の周りには、自立し独立した、助け合える女友達がいて、折々の、彼女達の会話を聞く日常の中で、育っていたので、私の自立心も、しっかりと芽生えていたのだと思う。
私の母が、そうしたように、私も、母を見送り、母の年齢に近づいた今日この頃。あの時と、同じ窓辺に佇み、決して開けなかった窓の内側で、愁い・苦悩、葛藤、留まり耐え抜いた母の人生は・・・?と、自問自答してみる。
思いきりこの家の、この窓を開けて、飛び出して行きたかったでしょうね。開けないままの、レースのカーテンを透して、愛した男を、みつめていた母の女心。けな気で、愛おしく、申し訳なく思うけれど・・・そう、レースのカーテンこそ、あなたが一番愛してくれた、娘の私だったのですもの・・・。(未完)
夕映えママのつぶやき
落合恵子さんと桐島洋子さんと
今では、シングルママだが、高校生だったあの頃、私生児という言葉を、レモンちゃんが教えてくれた。この時代は、テレビが主流で、もうラジオは、きかなかった。出版本もよんだ事もなかったのに、東京新聞連載「母親に歌う子守唄」を、心待ちにしていた。自立して仕事を持ちながら、母親の介護に明け暮れる日々の中、母親と生きてきた家庭背景に、母と同じ女性としての自身の思いがあり、母子家庭、流れてきた時代があった。私の知らない環境にあった敗戦すぐの母娘の生活を読んだ。霧島洋子さんも、自立した女性でした。深くは知らないが、お子さんを三人とも、洋行中の船で出産したという。船上なら費用が、かからないから・・・と、あの頃、なにかに書いていました。そんな記事でも、凄くリッチを、感じました。凄い才能を感じ、センスの良さが羨ましかった。地方でノホホと生きてた私には、到底、真似の出来ないこと、全くのひとごとでした。(未完)